「無難にしておこう」は、いちばん安全な選択のはずだった。 商品でも、SNSの発信でも、店の内装でも、履歴書でも。角を丸くして、誰にも引っかからない形にして、それで安心していた。でも、覚えてもらえない。 先日、その理由をはっきり言葉にしてくれた人に会った。

40年、広告を作ってきた人の話

話した相手は、その道40年の広告のクリエイティブディレクター。少し前に、広告業界の第一線を極めてきたクリエイティブディレクターが数人集まって、「クリエイティブディレクションとは何か」を話し合う機会があったそうだ。

面白かったのは、集まった面々は作風も得意分野もバラバラなのに、大切にしていることは共通していた、という話。

——広告の目的は、突き詰めると2つしかない。 知ってもらって買ってもらうか、好きになってもらうか。そして、その目的に本当に効く表現は、必ず「突出」している。覚えられないもの、目に留まらないものは、目的に届かないから。

どう突出させるかに、決まった正解はない。 商品、市場、受け手、社会の気分。いろんな方向から考えて、感じ取って、その都度決める。決めたら、関わる人たちと共有して、意見を聞きながら全体をまとめて回していく。 彼はこの仕事を「地図の見取り図をつくるようなもの」と言った。

なぜ今、「無難」は「不在」なのか

検索すれば答えが出てくる。おすすめは向こうから届く。

発信者の側がみんなが「検索やおすすめ」に出てくるように、出てきやすい答えを見て作るから、できあがるものが似てくる。似ているものは、流れていく画面の中で区別がつかない。区別がつかないものは、記憶に残らない。

つまりこの時代、「無難」は「安全」ではなくて、「最初からそこに無かったこと」と同じになってしまった。

発信する側として、「でも、突出はちょっと嫌だ」という人へ

それも当然だと思う。悪目立ちしたいわけじゃない。大声を出したいわけでもない。 ここで考えたいのは、突出とは、派手さの量だろうか?ということ。

たとえば、何も置かないテーブルに、大切にしている器が一枚だけ置いてある部屋。声は小さいのに、忘れられない。そういう静かな突出が、たしかにある。

では、うるさい突出と静かな突出、残るものと残らないものは、何が違うのか。

突出の競争と、そこに混ざる「嘘」

古き良き広告の時代が終わり、アルゴリズムの時代になって、起きたことがある。 突出そのものが、オリンピックみたいな競争になった。

世界最大のYouTuberであるMrBeastは「匿名で新しいチャンネルを始めても、6ヶ月以内に何百万人も集められる」と話しているという。ただしその裏には、10年以上かけて検証してきた「視聴者は何に興味を持つか」の企画力と、プラットフォームのアルゴリズムへの深い理解がある。見る人が本当によろこぶことと、数字が伸びることを、高いレベルで両立できる人はそうそういない。

だからその手前では、登録者100万、50万、10万、1万、1000人——それぞれのスケールで、人の時間と興味をめぐる領土争いが絶えない。そこに溢れるのは、「突出した」24時間脱出企画、「突出した」ゼロからの成功物語、「突出した」すてきな生活、「突出した」儲け話、引きだけのサムネイル。

ここで整理しておきたい。 「突出」には、2つの要素が混ざっている。 表現を届けるための「テクニック」と、その中身である「メッセージ」だ。

テクニックそのものは、何も悪くない。 サムネイルを工夫する、アルゴリズムを理解する、届け方を設計する——届けたいものがあるなら、届くようにマーケティングするのは、むしろ大事な素養だと思う。どんなに良いものも、届かなければ無いのと同じ、というのはこの記事の前提でもある。

問題は、メッセージの側で起きる。 「買ってもらえればいい」「見てもらえさえすればいい」——意図のバランスが、相手より自分の側に傾きすぎたとき。テクニックは同じでも、受け取る側はそれをだんだん感じ取って、警戒するようになる。どこまでが許容かの判断は人それぞれだが、極端に傾けば、行き着く先は詐欺に近いビジネス商法や扇動的なふるまい。倫理の問題になる。

視聴者の眼が見抜くようになる「嘘」の正体は、これだ。 テクニックの巧さではなく、メッセージが発信者のほうしか向いていないこと。一瞬引っかかるけれど、時間が溶けるだけで、何も残らない。

突出には、2種類ある

ここまで来ると、「突出」に含まれる要素が分解できてくる。

突出には、2種類ある。 1つ目は、テクニックの突出。 学べるし、再現できる。競争になっているのは、主にこちら。 2つ目は、メッセージの突出。こちらは、仕組みが違う。

メッセージが突出するのは、大声だからではない。 その発信が、受け取る側の心が動きやすいところ——いわば「心が動くツボ」に、ちょうど置かれるからだ。

だとすると、次の問いはこうなる。 「心が動くツボ」って、なんだ?

理屈で考えるより、自分の記憶に聞くほうが早い。 いままでに、心に残ってしまった表現を、思い出して書き出してみる。たとえば——私の場合は、こうなった。

  • 赤坂にあるとある韓国料理のオモニの作るキムチの味、「若い頃は走り抜けるように過ごしてきたけど、今になると夜にお裁縫をする時間など何気ない時間が味わい深い」と話してくれた時の笑顔
  • 友人が教えているダンス教室の発表会で踊った生徒さんの、上手くないのにどんな上手いプロよりも強烈な生命そのもののような踊り
  • ニューヨークで、MoMAの階段を上がって踊り場で目に入ったマチスの『ダンス(I)』

などなど…。

リストはもっと続くが、こうやって書き出してみると、気づくことがある。 派手なものが、ほとんどない。24時間の企画も、豪邸も、儲け話も、リストに入ってこない。 残っているのは、自分の心が動くツボの上に、たまたま、あるいは正確に、置かれたものたちだ。

そしてもうひとつ。このリストは、人によって全然違うものになる。同じ店、同じ器、同じ映画でも、残る人と残らない人がいる。 心が動くツボは、万人共通の急所ではなく、一人ひとり違う場所にある。

——だとすると、論点は2つに絞れてくる。

届けたい相手のツボはどこにあるのか。 そして、そもそも自分のツボを、自分は知っているのか。 順番は、たぶん後者が先だ。 自分の心がどこで動くかを知らない人が、他人のそれを感じ取るのは、難しい。

自分の心のツボは、どこにあるのか

さっきのリストは、実はそのまま答えの入口になっている。 あそこに並んだものは全部、自分のツボの上に置かれたものだからだ。自分のツボがどこにあるのかは、新しく探すものではなく、記憶を振り返れば、もう半分見えている。もちろん、これは固定ではなく、自分が何を大事に感じているかで常にうつろい変わっていく。

ただ、多くの人はそこで止まる。「なんとなく好き」のまま、なぜ好きなのかを考えてみない。

先日、あるキュレーターの方から、こんな話を聞いた。 その方はロンドンに行くとき、定宿をコンラッドにしている。もっとラグジュアリーなホテルもあるのに、なぜか。あるとき、自分がこのホテルを選び続ける理由をほどいてみたら、豪華さではなかった。バスタブとシャワーが分かれていること。交通の便。使い勝手。——自分は快適さの中でも「そこ」を重視する人間なのだと、途中で自覚できたという。

いったん自覚すると、自分に説明がつくから、選ぶことに迷いがなくなったそうだ。しかもホテルで見つけた「自分にとって大事なこと」は、ホテル以外のもの——たとえば空間の設計で意匠を取るか動線を取るか——を選ぶときにも、同じように顔を出す。ツボは一箇所見つかると、他の場所でも見出しやすくなる。

そして、もうひとつ大きなことがある。 自分のツボと、その境界線がわかると、知らないあいだに外から侵食されることが、なくなっていく。

さっきの領土争いの話のとおり、私たちの時間と興味は、毎日、誰かに「狙われて」いる。自分のツボの場所を自分で知らないままだと、誰かが設計した「動きやすいところ」に、気づかないうちに押され続ける。買うつもりのなかったものを買い、観るつもりのなかったものに時間が溶けることも多い。

でも、境界線が見えている人は違う。 ツボから外れた情報がやってきても、慌てて拒む必要がない。上手に受け流せる。あるいは受け入れながら、「なるほど、でも自分はここでは動かないな」と面白がることさえできる。

閉じるのでも、流されるのでもなく、自分と相手のあいだに余白を持って向き合える。外の提案を聞けるのに、乗っ取られない。

覚えてもらえるものは、どこに置かれているか

冒頭の問いに戻ってみよう。 なぜ、無難は誰にも覚えてもらえないのか。それは、無難とは、誰の心のツボにも触れないように、角を全部丸くしたものだからだ。

突出に必要なのは、大声でも、奇抜さでもなかった。誰かのツボに、正確に置くこと。 そしてそれができる人は、例外なく、自分のツボがどこにあるかをよく知っている。40年のクリエイティブディレクターは「いろんな方向から情報を立体的に見て考えると同時に、感じ取って、決める」と言っていた。 ”感じ取る”は、この蓄積のことのように思った。

つまり、自分のツボを知ることは、二つの方向に同時に効く。 届けるときの精度と、受け取るときの自由。

自分のツボがどこにあるのか—— 今日、なんとなく選んだものが、最初の手がかりになる。

むすびに——ツボがあるから、開けられる

どちらかというと、自分の時間や心の動きを守る話に聞こえたかもしれないけれど、この話の先は、守るとは逆の方向になっていく。

自分の心が動くツボと、境界線の余白(ゆとり)が見えてくると、外から来るものを閉め出す必要が、なくなっていく。

ツボに触れたものは深く受け取る。外れたものは、面白がって受け流す。押しの強いものには乗っ取られず、それでも、いい提案は聞ける。つまり、世界と、いいやり取りができるようになる。

ツボがあるから、心を開けられる。余白があるから、疲れない。

この記事でやってきたのは、いわば「考えて、ほどく」という作業。 記憶を書き出し、好きの理由を切り分ける。 でも、考えたり取り組むことなく、このほどく作業ができる方法がある。

それが、「手で、ほどく」ということ。稽古と言い換えてもいい。 花を器にいける。写真を撮る。—— 手を動かす小さな制作には、頭より先に感覚が動く瞬間があって、自分の心が動くツボは、そこに一番正直に出る。だからこそ、それを見つけ直して暮らしを編み直す「アート行動調律療法」を作ったというわけです。

考えるのが得意な人は、今日の「心に残ってしまったもの」のリストから。 考えすぎてしまう人は、花一輪からでも。 入口はどちらでも、向かう先は同じはず。

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